今こそ、個へのまなざしを(理事長からのメッセージ)

 理事長 高石恭子(甲南大学)

 卒業、入学、入社・・・人生の重要なセレモニーが今年は通常通り行われないまま、新年度が始まりました。握手したり、肩を抱き合ったり、桜や新緑の下でお喋りを楽しんだりといった、いつもなら当たり前の別れと出会いの風景もなく、若い人々の記憶には「失われた春」として、生涯刻まれるに違いありません。

 新型コロナウイルス感染症は、1月16日に初の国内感染者が確認されてからまだ3ヶ月ほどしか経っていませんが、今では世界中のほとんどの国で猛威を振るい、人々の生命を脅かしています。肉眼では見えない「敵」に対し、私たちは自粛し、自制し、総力を挙げて戦うよう駆り立てられています。

 見えない敵(異物)がある集団・社会に侵入してきたとき、気をつけなければならないのは、必ずそこに「排除の論理」が力をもつようになるということです。

     今年開催されるはずだった東京五輪・パラリンピックの大会理念の一つは、「多様性と調和」でした。教育においても、「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合うことで社会は進歩する」という、多様性(ダイバーシティ)の実現が目指されている21世紀の今日です。しかし、今回のような感染症問題が発生すると、魔女の呪いとされた中世とほとんど変わらないデマが飛び交い、欧米でアジア人が殴打されたり、日本でも電車内でマスクを着用しない人が暴言を吐かれたりする事態が生じるのは、残念で仕方ありません。オリンピックの理念は、カウントダウンパネルと一緒に片付けられてしまったのでしょうか。不安が高まると、異質なものや少数のものを集団から排除して自分を守ろうとする衝動を抑えるのは、人間にとってかくも難しいことだと言えます。

 

 このような今こそ、学生相談に携わる私たちは、「個へのまなざし」を忘れないようにしたいと思います。本学会を含め、心理学関連諸団体からは、遠隔相談の導入や、隔離された人への心のケアについて、日々新しい情報が発信されています。各高等教育機関においても、文科省の指針に沿って、遠隔授業の導入実施に向けた準備が急スピードで進められています。この流れについていかないといけないと、焦りや不安を覚えているみなさんも少なくないでしょう。しかし、そのような急流に呑み込まれないようにしていただきたいのです。

 今、私の所属する大学で学生たちの声に耳を傾けていると、25年前の阪神・淡路大震災での経験と重なる部分が多いことを感じます。非日常の状態が発生し、持続すると、それまで自分を支えていた軸(社会から与えられる物差し、あるいは参照枠)が失われ、新たな軸を用いて自分を支えることが必要になるため、同じ自然災害であっても、学生によって心の反応は全く違った様相をとるということです。たとえば、限られた私の体験から思い出すなかでも、生きる意味を見失って何年も引きこもっていた学生が体を張って家族や避難所の人々のために働き、感謝されることをきっかけに心を蘇らせて卒業を果たしていったり、充実した学生生活を送っていた学生が、何も失わなかったことが罪悪感(サバイバーズ・ギルト)になり、何ヶ月もたってからうつ状態に陥ったりという、想定外のことがいくつもありました。

 今回も、部活動に生きがいを感じていた学生や、周到な準備をして長期留学の出発が間近だった学生の喪失感は、測りきれないものがあります。一方、対面授業や学生同士のグループワークが苦手で欠席がちになっていた学習意欲のある学生にとっては、「登校しないことが標準」の学生生活は、希望の光が差すものに感じられていることでしょう。また、「家にいてください(Stay Home/Stay at Home)」という政府のメッセージは、家族関係でつらい思いを抱えている学生にとっては、単なる自粛ストレスを超えて、心の傷をえぐられるものとなっているかもしれません。さらに、自分や家族が感染してしまったことで、自責の念に苦しんだり、差別的な扱いを受けて怒りを抱えている学生もいるでしょう。

 学生相談に携わる私たち、とりわけカウンセラーは、このような非常事態において見過ごされがちな少数の、また一人ひとりの学生の心に何が起きているかにまなざしを向け、寄り添うことが大切です。また、一人ひとりから発せられる声を聴き取り、理解し、大学や社会に伝えていくことが必要です。

 危機対応は、学生相談に携わる者の重要な任務の一つです。常に「最悪の事態」を想像して万全の準備を行いつつ、できるだけ「平常の心」で一人ひとりの学生とつながることを試みてください。それができるためには、まず私たちが安心と安全を確保していなければなりません。とくに感染者の多い地域で、非常勤などの立場で学生相談に携わっておられる方々にとっては、自分に何ができるのか不安や戸惑いを感じる局面も少なくないでしょう。相談や支援の新たな選択肢を増やすことは、もちろん良いことに違いありません。ただ、決して自分の不安に蓋をして無理に頑張ろうとせず、ときには大学や組織から求められる何かを「しない」判断をする勇気も、もっておいてほしいと思います。

    多くの自然災害と同様、今回の感染症拡大においても、個人が受けた心の傷つきの影響は年単位でその人の将来に影響を与え続けるでしょう。それは学生だけでなく、カウンセラーや教職員も同様です。目に見えない奥深い不安は、戦って一掃することはできないという意味で、ウイルスより手強い存在かもしれません。どうぞ、みなさんの経験を記録し、信頼できる仲間と共有し、まずは自分自身の平常の心を確認して下さい。本学会もみなさんと共に、新型コロナの時代の学生の生活と巣立ちをどのように支援できるか、考えていきたいと思います。

 

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